『パスカル―「考える葦」の意味するもの 』(中公新書 156)
目次
はじめに
パスカルと言えば「考える葦」、「考える葦」と言えばパスカルをすぐ思うほど、両者は深く結びついているが、その結びつきは、合わせてわずか一頁になるかならない、この二つの短文によるだけなのである。パスカルがその三十九年の生涯で、言い残し、書き残したすべての記録をあさっても、「考える葦」という表現は、他には見当らない。
この短い文章の持つ独特の意味を、その深さと、複雑さと繊細さとにおいて十分くみとるためには、パスカルが、直接の説明をこれ以外には加えてくれなかった以上、彼の全生涯、全著作を探って、それを試みるほかはない。
1 パスカル『パンセ』
Ⅰ 『パンセ』と十七世紀のフランス
政治情勢
宗教
思想状況
模倣と適応の世紀から綜合と創造の世紀へ
国語の順化
Ⅱ パスカルの生涯
神童と父の教育方法
天才少年と幾何学
青年科学者
心の世界への開眼
魂の救い
『サシとの対話』
『プロヴァンシアル』書簡と晩年
Ⅲ 『パンセ』の成立と歴史
「考える葦」の著者の生涯をその最期まで見届けたので、次に、「考える葦」が収められているパスカルの主著『パンセ』は、どういうふうに成立し、どういう形で今日まで伝えられてきているかを概観する。
『パンセ』というのは、フランス語で「思想」という意味で、パスカル自身のつけた名ではない。パスカルの遺稿が初めて刊行されたときの表題に基づいているのである。その遺稿集は、パスカルが生前準備していたキリスト教弁証論の作成のための準備の覚え書を集めたものである。
『パンセ』執筆の動機
『パンセ』初版の成立
その後の諸版
ブランシュヴィック版
第一写本優先説
2 「考える葦」
Ⅰ 『パンセ』におけるその位置
いよいよ「考える葦」と直接取組む段取りになったが、最初に行なわなければならないのは、それが『パンセ』のなかで、どういう位置を占めているかという問題である。
ブランシュヴィック版における位置
第一写本における位置
「人間の認識から神への移行」の束
Ⅱ 語句の解明
テキストと語句の意味
「考える葦」の二断章の『パンセ』内での位置づけができたので、いよいよそのテキストそのも のを取り上げることになる。まずここでは、そのテキストがどういう順序で記され、どういう形で伝えられたかというテキスト自体の問題と、その語句そのものの意味をはっきりさせることから始める。
Ⅲ 解釈のための参考条件
スボンとモンテーニュ
『パンセ』執筆前の著作
Ⅳ 「考える葦」の隠れた意味
以上で、「考える葦」の二断章の真意を探るのに必要な予備資料を一通りあたったので、いよいよ、『パンセ』の一部としての「考える葦」の意味するところを直接考えることにしよう。
人間の精神の偉大さと惨めさ
こうしてイエス・キリストの存在が、「偉大さ」と「惨めさ」の矛盾に悩む人間に、救いをもたらし、パスカル自身も「覚え書』の中で悔い改めの涙にぬれながらもなお、「人間の魂の偉大さ」を確認することができたのであるが、こうした、自然的次元を超越した、問題の解決は、物質と精神の、相断絶した二次元の上に、さらにいま一つ、キリストを中心とする「愛の次元」を認めることを意味しているのである。
第三の「愛の次元」
この重要な断章によってはっきりしたように、「考える葦」の宇宙に対する優越は、さらにその上にある、キリストを中心とする「愛の次元」をも認めることによって確立していたのであって、「考える葦」だけでは、パスカルの世界観の一部しか伝えていない、暫定的、中間的なものであったことになる。
これでわれわれのまわりくどい「考える葦」の追究も、いよいよ終点に近づいたのであるが、 私の見解によれば、「人間の認識から神への移行」の束が全体として、人間の面と神の面の両方を含み、またとくにその中でも、いま述べたばかりの第六の断章ではメシア預言まで含んでいるのと同じように、「考える葦」の断章そのものにもすでに人間以上の次元が暗示されているのである。
キリストと葦
少し前のところで、他からの影響関係について記したさいに保留した (一三七頁参照) のは、パスカルがなぜとくに「葦」を人間のもろさの象徴として選んだかという点についてである。いうまでもなく、葦を弱いものの例にとること自体には不思議はない。パスカルと同時代のラ・フォンテーヌがイソップの寓話を詩にした傑作「樫と葦』 (一六六八年) においても似たような意味に用いられている。しかしパスカルがとくにこれを取り上げたのにはなにか深い理由があるのではなかろうか。私の考えでは、パスカルは聖書から暗示されたのではないかと思われる。パスカルが聖書をどんなに日夜精読したかは、姉ジルベルトが「彼はそれにあまり強く熱中したので、ついにほとんど全部を暗記するようにまでなった」と記しているのを見ても明らかである。ところで、 聖書の中で葦がどのように用いられているかというと、次のような注目すべき例がいくつかある。
「葦」という語が用いられているこれらの聖句は、パスカルが平生用いたルーヴァン大学の神学者たちの仏語訳でもすべて、「考える葦」の葦と同じ語の roseau が用いられている。また本章のはじめのほうで言及した『要約イエス・キリスト伝』(一五六頁参照) には、ピラトの兵士たちに持たせられた「葦の棒」のところがでているが (同伝、二五三節)、その「葦」にも同じ roseau が用いられている。しかも「考える葦」の第一の断章のはじめと同じに (一二七―一二八頁参照) un roseau となっており、ここでは「一本の葦の棒」という意味になっている。
この語が聖書で、このようにたびたび、キリストについての重要な記述に使用されるのを知っていたパスカルが、人間のもろさの象徴として「葦」を選び、「傷ついた葦を折ること」のないキリストの救いを暗示させたことは充分考えられることと思う。ことに、この断章が、「人間の認識から神への移行」という、中間的で、複雑な関係に立たされている章の一部であり、しかもそのすぐ前に、同じ H の符号をとり、これに劣らず暗示に富む、二つの断章が並び、しかもその最初のほうは、じつにメシア預言に言及しているのであるから、このような解釈が許されてよいと思う。
Ⅴ むすび
パスカルにとっては、権力者の支配する物質の世界の上に、学者の支配する精神の世界、さらにその上に、キリストの支配する愛の世界が存在するのである。
有名な賭の断章 (二三三三三) のはじめの欄外に記された「実体的真理というものは、いったい存在しないのだろうか。真理そのものではないが、真ではあるものが、こんなにたくさん見えるのに」という言葉がある。これはパスカルの認識論のもっとも端的な表現であるが、その言葉を借りれば、「真理そのものではないが、真ではあるもの」が学者の世界であるのに対し、キリストに具現された愛こそが「実体的真理」なのである。
「考える葦」の「尊さ」の保証としてキリストを前提にし、この思想を上からの統一によって調和される三元論の一部と考えるならば、これに対する反応は、キリスト教そのものに対する反応と重なることになる。
パスカルの特徴である、物事を根本から考え直し、直接物事にぶつかって、借り物でなく、自分の頭で考える態度と、物事の実体を鋭く見抜き、本質的なものと、そうでないものとを見分ける能力とは、今日われわれがもっとも必要とし ているものである。
われわれ人間の意識の世界―――そのすばらしさも、しれぬ醜さも、歴史の進行につれてともに増すばかりのこの意識の世界が、物質の上部構造にすぎず、地球の消滅とともにすべて無に帰 してしまうものかどうかは、「人間の認識から神への移行」の束の中のいくつかの断章が、相変らず執拗にわれわれに問いかけている問題である。
今日のわれわれにとっては、パスカル自身が考えていたよりは、比較を絶するほど長い地球と人類の歴史の中での人間の意識とその作りだす価値とが、ただそれだけのものなのか、あるいはパスカルの信じたキリストの愛というような「実体的真理」の裏付けがなにかないものだろうかというのが、いぜんとして大問題である。
あとがき
古典の中から一、二ページを取り出し、それを時代、伝記、書物とその中の位置づけ、テキスト、影響関係、字句、 内容批判、鑑賞等のありとあらゆる角度から検討し、その文章の中から引き出せるだけのものをみな引き出そうとする訓練は、フランスの国文教育では、エクスプリカシオン・フランセーズ (国文解釈) と言われ、多大の成果を収めている。私の今回の試みは、いわば、フランスの学校または大学で、授業中の比較的限られた時間で行なわれているこの作業を、小さいとはいえ、ともかく一冊全体を使って行なってみたものと言えよう。